自己とは生成である

自己意識

緩和ケア病棟で、「死ぬのが怖い」と率直に告白されるのを何度か聞いた。われわれは、死をどのようにイメージしているのだろう。

一般には意識がなくなって、自分が消失するものとして死を把握している。しかし、木村敏によれば、われわれが日常的に経験している自己は、身体という「もの」ではない。自分を自覚したとき、「こと」として自己が生じる。

人と人との関係においても、相手の身体という「もの」ではなく、相手の表情や所作から心情の動きという「こと」を読み取って交流している。このように、自己を「こと」という視点からみると、自己とは何かを理解する糸口が見えてくる。

身体は細胞が絶えず入れかわって、動的平衡を維持している。それと同様に、自己も非自己と出会って、自己を自覚する。つまり、自己とは生成する運動である。われわわれが自己と考えているものは、我執に過ぎないのかもしれない。

親しい人と対話すると感情が活気付くのは、感情が交換されるからであり、その意味では感情は人と人とのあいだに、身体を超えて広がっているように思える。われわれの日常生活においては、身体は媒体としてのスクリーンの幕のように意識にのぼらないが、痛みなどの不具合があると意識にのぼる。

ともかく、死に臨むとき、われわれは自己は身体だと狭く限定しがちになる。身体の痛みやだるさを感じながら寝ていると、身体の調子に意識が集中するようになる。そのため、にわかに身体と自分とを同一視することになる。この身体と自己とを同一視することから解放されれば、死はそのトゲを抜かれることだろう。

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