自己とは生命の現れである

自己意識

身体は自分が対象化しているものである。

それなら対象化している自分は身体とは異なることになる。精神科医の木村敏は、生き物のすべては、生命一般を根拠として生きているという。

生命一般が「おのずから」われわれの身体を形成し、維持し続けている。これは生命一般の自己組織化のことなのか。生命一般は対象化できず、客観的に知ることができない。しかし、行為や実践をとおして、実感することはできる。

そして生命一般の「おのずから」のはたらきを、個別の「みずから」の働きにすくいとって自己として限定している。この考えに立てば、わわれの自己を根底において支えているのは、生命一般ということになる。言い換えれば、われわれが生きているということは、われわれを超えた生命一般の「おのずから」のはたらきを身に受けつつ、個別的身体を「みずから」維持し、成長し、死ぬことにある。

われわれが個別の身体をもって生まれ出たということは、死ぬべく定められて生まれ出たことである。

この経験の世界では、死は生命活動の停止であり、生と死とは正反対のものに映る。しかし、その経験の世界を根底で支えているのは、そこから生まれ、そこに死んでいく生死の区別のない場である。

木村敏は書く。「生きがいとは、われわれの生の一瞬一瞬が実り豊かな死を準備する成長の過程かりうることの喜びである」。これが真実なら、どんなによいだろう。われわれの個別的生は、実り豊かな死に向かって成熟していくことが可能である。

それでは、実り豊かな死を迎えるためには、どのような成熟、成長が求められるのだろうか。

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