―生と死
生物的にみれば、生と死は対立しているのではなく、生には死が書き込まれていると考える方が自然。では、精神的な意味で、生が熟して死にいたるとはどういうことか。
老人になると、死を意識し始め、去り行く者として、残された一日一日を悔いのないように充実して生きようとする。あるいは多くの知人、友人を見送り、生きていることが、何か奇蹟的な出来事のように感じ始める。そこからさらに進んで、自分の死後からこの世を眺める視点にさえわれわれは立つことができる。すると、一日一日が貴重でかけがえのない経験に思え、小さな日々の出来事が感慨深く心に刻まれる。十分に生きた果ての死は、充実した満足感に満たされるのかもしれない。この自分の死後から自分の生を眺める死生観が、死という根に支えられた生命を生きることを初めて可能にすると私は思う。
―科学主義の射程と神秘体験
死は、生物的に定義すれば、生命維持活動の停止である。生命維持の停止に至る過程で、半睡状態が続くことがあり、日常的な意識状態を越え出た変性意識になることもある。死は未知の体験で、神秘体験や臨死体験などのように、われわれが馴染んできた因果法則の支配する合理的世界観の枠組みを越え出ることもある。この神秘体験や臨死体験を説明できる包括的な宇宙観、死生観とはどのようなものになるのか。この第二篇では、死を越え出る生の思想を中心にすえて叙述した。
現代では、伝統的な宗教の死生観は衰微し、かわりに科学主義的死生観が支配している。科学主義的世界観は、極論すれば、「宇宙は無目的に動いている巨大な機械」であり、「私の死」は生物学的な原因で生じる偶発的あるいは宿命的な出来事に過ぎない。科学は再現可能な実証的証拠を積み重ね、科学的知見は真実に近づく。とはいえ他方で、科学的な知は暫定性を免れず、たえず更新されていく知でもある。科学的知に限らず、絶対的真理を主張できる学問などそもそも存在しない。
科学的知の限界は、個人的な生きる意義や意味を問いえないことにある。しかし、われわれにとって最も切実な問題領域は、その人なりの生への期待、希望などの個別的価値にある。
物質から意識や精神が生まれているというのは、科学的研究の方法論上の前提に過ぎず、実証されているわけではない。脳神経科学では、「自分を自分として感じる」のは、皮膚を境界とする身体の空間性、身体内部の内臓と脳の神経系との相互作用などから説明できるというが果たしてそうだろうか。
―死は自己意識の消失か?
一般に、われわれは死が意識の消失であり、意識的自己は無になると考える。たしかに、アルコールや薬物を摂取すれば、脳の神経系に作用し、意識は変化する。あるいは、脳に損傷をうければ、意識や行動に異変が起こるのは疑えない。また身体に傷を受ければ、自分の身体が痛いと意識する。また疾病によって、精神的な気力まで衰えるのは経験的事実である。そのため、意識の消失は自己意識の消滅という脳神経科学が前提とする仮定が真理のように受け入られている。しかし、それは「不当仮定の虚偽」かもしれない。われわれは根拠のあいまいな科学主義の前提を信じて、死を恐怖するが、それこそ実証的な態度とはいえない。死後もわれわれの生が継続するという思想はソクラテス以来、形を変えて連綿と存続している。近年は、臨死体験において、脳死に近い状態で、清明な意識の存続があったとする事例研究が蓄積されてきている。
臨死体験は脳内の現象だとする説もあるが、見た光景が客観的事実と合致している事例もある。それは、どのように説明できるのだろうか。
神秘体験は、われわれの合理主義的概念を越え出たものだが、われわれが永遠の存在で、生きた宇宙のすべてとつながっているという洞察を与えることもある。ウイリアム・ジェイムズによれば、われわれの合理的意識は目覚めているときの意識の特殊型にすぎず、この意識の回りに、それとはまったく異なった潜在的な形態の意識がある。そのために、神秘体験は起こると解釈している。われわわれの自己意識は宇宙に開いている。
―脳機能からは説明できないもの
脳神経系が知覚や身体運動をつかさどっている。とはいえ、神経細胞のネットワークの働きは、どこまでも物質的な作用であり、そこからどのようにして感覚的質感や意志や心が生まれてくるのかの探求には、われわれの主観を経由せざるを得ない。すなわち、神経細胞のはたらきを心のはたらきと関連づけるには、そこに解釈という主観的作業を媒介せざるを得ないため、純粋に客観的地平では心そのものは解明できないことになる。
ミシェル・アンリは「生の現象学」において、意志や心という主観から、自己の現出を跡付けようとした。それは第三編で詳述する。
さて、科学主義的世界観はわれわれの知覚を無批判に前提としている。ところが、知覚は人間の限定された知覚にすぎず、しかも知覚は脳の神経系と外界の事物との相互作用で成立していて、脳に表象された知覚は現実を切り取った断片にすぎないのである。
この宇宙の組成を素粒子にまで辿ると、すべてのものは相互作用しており、独立して存在するものは何一つない。人間はこの宇宙に包摂される存在の一部であり、その相互作用に巻き込まれており、その相互作用から外に出て、純粋な客観的視点に立つのは原理的に不可能なのではないか。


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