nakamura hiromu

生と死

死を越える生

緩和ケア病棟で、「死ぬのが恐い」という男性に、「死んでも何も変わりませんよ」と応じた。わたしが、「死んでも何も変わりませんよ」と言ったのは、ソクラテスが念頭にあった。ソクラテスは、死を場合分けして評価する。もし、死が無への回帰であり、熟睡のような気持ちの良いものであれば、死に忌むべきものは何一つない。それとは反対に、魂が不滅だとすれば、死は、魂が肉体の束縛から解放される至福以外のなにものでもない。つまり、意識がなくなって、自己が無になるとすれば、その無になった自己を確認する手立てはないのだから、熟睡のように「何も変わらない」。そうではなく、魂としての自己は死後も継続するのであれば、これまた「何も変わらない」。
人間関係

日本人の人間関係の特殊性

日本人の自己というものは、相互の人間関係によって成立している。西洋人は自己の内面から確固とした個としての自己を確立しているようだが、日本人は、その内面から自己が生まれるのではなく、自己は相互の人間関係から定まる。
自己意識

自己とは生成である

親しい人と対話すると感情が活気付くのは、感情が交換されるからであり、その意味では感情は人と人とのあいだに、身体を超えて広がっているように思える。われわれの日常生活においては、身体は媒体としてのスクリーンの幕のように意識にのぼらないが、痛みなどの不具合があると意識にのぼる。ともかく、死に臨むとき、われわれは自己は身体だと狭く限定しがちになる。
未分類

宇宙の人格的エネルギー

19世紀にアメリカで流行した精神療法運動は、宇宙の生命力と精神的につながることが、身体の病を癒し、精神の安定をもたらすというものだった。宇宙には、無限の生命と力をもつ人格的エネルギーが存在し、万物を通じて自己を顕現する。このエネルギーが慈悲の光、全能の神などと呼ばれてきた。人間の生命は、本質においては、この無限の生命につながっている。
生と死

経験の地平を超えた世界を想像する

トルストイは、家庭も仕事も順風満帆に進んでいるとき、人生の無意味さに悩み、自殺を考えるまでになる。世界のあらゆる価値が失われ、世界は魅力を失い、よそよそしく不吉になった。この事態は、末期がんを宣告された患者にもよく起こることである。トルスト...
自己意識

自己とは生命の現れである

木村敏は書く。「生きがいとは、われわれの生の一瞬一瞬が実り豊かな死を準備する成長の過程かりうることの喜びである」。これが真実なら、どんなによいだろう。われわれの個別的生は、実り豊かな死に向かって成熟していくことが可能である。